Appleは何を売っているのか

2007年 Macworld Conference でiPhoneを発表するスティーブ・ジョブズ
2007年 Macworld Conference

2007年1月9日、Macworld Conferenceの壇上。
スティーブ・ジョブズは聴衆にこう語りかけた。

「今日、Appleは3つの革命的な製品を発表します。
タッチコントロール付きのワイドスクリーンiPod。
革命的な携帯電話。
そして画期的なインターネットコミュニケーションデバイス」

会場が沸く。しかし、ジョブズは畳みかける。

「これは3つの別々のデバイスではありません。
1つのデバイスなのです。
私たちはこれをiPhoneと呼びます」

この瞬間、世界は変わった。(参考:Inc.com

しかし、Appleが売っていたのは「電話」ではなかった。
彼らが売っていたのは、「クリエイティブな自分になれる自分」という体験だった。

ITに詳しくなくても、おしゃれにテクノロジーを使いこなせる。
マニュアルを読まなくても、直感的に操作できる。
Macを使っている自分は、なんとなくカッコいい。

これがAppleの本質であり、ブランドエクスペリエンス(BX)経営の教科書的事例である。

Appleのブランド憲法

ジョブズが信じていた「人間観」

ジョブズには一貫した哲学があった。

「人は本来クリエイティブである」

2005年 スタンフォード大学卒業式でスピーチするスティーブ・ジョブズ
2005年 スタンフォード大学卒業式スピーチ

2005年、スタンフォード大学の卒業式スピーチで、
ジョブズは自らの人生を振り返った。

大学中退後に受講したカリグラフィーの授業が、
10年後のMacintoshの美しいフォントデザインにつながった。
当時は何の役に立つかわからなかった「点」が、後から「線」になった。(参考:Yahoo!ニュース

この体験が、Appleの哲学を形作った。

人は、自分の中にある創造性を発揮したがっている。
ただ、それを邪魔するものがある。テクノロジーの複雑さだ。

だからAppleは、複雑さを徹底的に排除する。
ユーザーが「自分にもできる」と思える瞬間を作る。
それが、Appleのすべての判断基準になっている。

ブランド憲法の構造

Appleのブランド憲法を整理すると、以下のようになる。

要素 内容
哲学 人は本来クリエイティブである
原則 テクノロジーは直感的であるべき、美しさは必須
使命 普通の人がクリエイティブになれる道具を提供

この憲法があるから、Appleの社員は「うちならどうするか」で判断できる。

追放前と復帰後:ジョブズの進化

追放前(1984年):製品のシンプルさへの執着

1984年、ジョブズはMacintoshを世に送り出した。

当時から、彼のシンプルさへの執着は異常だった。

  • 筐体を「電話帳」の大きさに収めるよう指示
  • 基板パターンが「美しくない」という理由で設計案を何度も却下
  • 拡張スロットを「無粋」として拒否
  • フロッピードライブのイジェクトボタンを「みすぼらしい」として削除

ユーザーが見ない内部基板の配列まで、美しさを要求した。

しかし、当時のジョブズには致命的な欠点があった。
製品の美しさには執着したが、事業全体の設計には目が向いていなかった。

1985年、自らスカウトしたCEOジョン・スカリーとの権力闘争に敗れ、
ジョブズはAppleを去る。30歳だった。(参考:Cult of Mac

不在時(1985-1997年):迷走の12年間

ジョブズ不在のAppleは、迷走を極めた。

Apple Newton - 1993年発売の世界初のPDA
Newton(1993年)- 時代を先取りしすぎたPDA

Newton(1993年)

世界初のPDA。時代を先取りしすぎた。
手書き認識の精度が低く、テレビ番組「ザ・シンプソンズ」で
ネタにされるほど嘲笑された。

Pippin(1996年)

ゲーム機市場への参入。
65億円の赤字を出し、わずか1年で製造中止。

20周年記念Mac - 88万8000円という価格設定
20周年記念Mac(1997年)- 88万8000円という過剰演出

20周年記念Mac(1997年)

88万8000円という価格設定。
リムジンで届けられ、タキシード姿のスタッフがセットアップするという過剰演出。
1ヶ月前に発売されたPower Mac 6500はほぼ同じ構成で価格が5分の1だった。(参考:WIRED.jp

製品ラインは乱立し、何の会社かわからなくなった。

「あと90日で銀行の預金が底をつく」
これが、1997年のAppleの現実だった。(参考:マイネ王

復帰後(1997年〜):事業全体のシンプル化

1997年8月、暫定CEO(iCEO)に就任。
彼が最初にやったことは、製品ラインの大削減だった。

「製品があまりにも多く、フォーカスしていません。
実際、私たちはプロダクトロードマップのうち
70パーセントの製品を削除しました」

参考:GIGAZINE

350種類あった製品は、わずか10種類に。参考:PRESIDENT Online

そして、4象限戦略を打ち出した。

デスクトップ ポータブル
プロ Power Mac PowerBook
コンシューマ iMac iBook

これだけ。

追放前のジョブズは「製品のシンプルさ」に執着していた。
復帰後のジョブズは「事業全体のシンプルさ」に目覚めた。
12年間の放浪が、彼を進化させた。

Think Different:ブランドの再定義

Think Differentキャンペーン - アインシュタインを起用した広告
Think Differentキャンペーン(1997年)

1997年、ジョブズは「Think Different」キャンペーンを展開する。

アインシュタイン、ジョン・レノン、ダライ・ラマ14世、
マハトマ・ガンジー、パブロ・ピカソ。
世界を変えた偉人たちが登場する。

「クレイジーな人たちがいる。
反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。
四角い穴に丸い杭を打ち込むように、
物事をまるで違う目で見る人たち」

このコピーは、IBMの「Think」へのカウンターだった。
IBMが「考えろ」と言うなら、Appleは「違う考え方をしろ」と言う。

重要なのは、このキャンペーンが製品の説明を一切していないことだ。

スペックも、価格も、機能も語らない。
語っているのは「Appleを選ぶ人はどんな人か」だけだ。

Macを買うことは、自分が「Think Different」な人間だと宣言することだった。
クリエイティブで、常識に囚われない、世界を変える側の人間だと。

タッチポイント別BX分析

製品:「自分にもできる」と思わせる

Appleの製品設計には、一貫した原則がある。

マニュアルがなくても使える。

iPhoneを初めて手にした人は、誰でも数分で基本操作を覚える。
ボタンは1つだけ。画面をタッチすれば、何かが起きる。

初代Macintoshの計算機アプリは、ジョブズ自身がデザインした。
何度もやり直しを命じ、最終的に「実際の計算機と同じ見た目」にこだわった。

なぜか。ユーザーが「見た瞬間に使い方がわかる」からだ。

これは偶然ではない。
「普通の人がクリエイティブになれる」というブランド憲法に基づいた設計だ。

Apple Store:体験を売る場所

Apple Store の Genius Bar
Genius Bar - リッツ・カールトンの手法を取り入れた

2001年5月19日、Apple Store1号店がオープンした。(参考:Wikipedia

当時、専門家たちは「失敗する」と予測した。
その直前、Windows PCの直営店を展開していたゲートウェイが
衰退していたからだ。

しかし、ジョブズの狙いは「製品を売る場所」ではなかった。

それまでの家電量販店では、Apple製品の扱いは最悪だった。
販売報奨金を出すメーカーの製品を優先的に勧めるため、
Macを買いに来た客にWindowsマシンを売りつけることが日常的に行われていた。(参考:MDN

ジョブズは、購入体験そのものをコントロールしようとした。

Apple Storeの設計には、リッツ・カールトンの手法が取り入れられた。
リテール責任者のロン・ジョンソンは、
「ホテルのコンシェルジュ・デスク」から着想を得て、Genius Barを提案した。(参考:トータルエンゲージメントグループ

結果は歴史が証明した。
2011年には、床面積あたりの売上が全米小売店トップとなり、
2位のティファニーの2倍以上を記録した。(参考:日本経済新聞

パッケージ:開封体験(アンボクシング)

iPhone 3Gのパッケージ - 開封体験をデザイン
iPhone 3Gのパッケージ - 開封体験をデザイン

Appleの箱を開けたことがある人なら、あの体験を覚えているだろう。

箱を持ち上げると、製品がゆっくりと現れる。
緩衝材はなく、製品が宙に浮いているかのように見える。
付属品は最小限で、マニュアルは薄い。

この「アンボクシング体験」は、
YouTubeで数百万回再生されるほどのコンテンツになった。

なぜここまでこだわるのか。
「特別なものを手に入れた」という感覚を作るためだ。

安い製品を大量に売るなら、こんなコストはかけない。
Appleは「クリエイティブな自分になれる道具」を売っているから、
開封の瞬間から体験が始まる。

Appleが「捨てたもの」

複雑な機能

エンジニアが「あったら便利」と提案する機能も、
Appleは容赦なく却下する。

初代iPhoneにはコピー&ペースト機能がなかった。
当時、これは大きな批判を浴びた。

しかしAppleは「完璧な形で実装できるまで」待った。
2年後のiPhone 3.0で、ようやく実装された。

複雑な機能は、ユーザーを迷わせる。
迷いは、「自分にもできる」という感覚を壊す。

「クリエイティブな自分になれるか?」という問いに合わないものは、
どれだけ便利でも切り捨てる。

安さ

Appleは価格競争に参加しない。

iPhoneは常に競合の1.5倍の価格だ。
それでも売れる。
スマートフォン業界の利益の9割以上をAppleが獲得しているという調査もある。

なぜ安くしないのか。
安さは、「特別な自分」という体験を壊すからだ。

「みんなが持っているから買う」ではなく、「自分はこれを選ぶ」という感覚。
それがAppleの価値であり、安売りはその価値を毀損する。

選択肢の多さ

1997年、ジョブズは製品を4つに絞った。

顧客が「どれを買えばいいかわからない」と迷う状態は、ブランドの失敗だ。
迷いは、「クリエイティブな自分」を邪魔する。

今でもAppleの製品ラインは驚くほど少ない。
iPhone、iPad、Mac、Apple Watch、AirPods。
それぞれ数種類のバリエーションがあるだけ。

ジョブズが死んでも、Appleが「Apple」であり続ける理由

2011年10月5日、スティーブ・ジョブズは膵臓がんで亡くなった。
56歳だった。

多くの人が「Appleは終わる」と予測した。

しかし、ジョブズの死後もAppleは成長を続けた。
2018年には時価総額1兆ドルを突破し、
アメリカ企業として初の記録を達成した。

なぜか。

ジョブズの「人は本来クリエイティブである」という哲学が、
組織に浸透しているから
だ。

  • 製品チームは「Appleらしいか」で判断する
  • デザインチームは製品開発に拒否権を持つ
  • 店舗スタッフは「共感」を徹底する

すべての判断基準が、
「顧客がクリエイティブな自分になれるか」で統一されている。

ティム・クックCEOは、ジョブズのような派手なプレゼンテーションはしない。
しかし、Appleの哲学は変わっていない。

それは、ジョブズが製品だけでなく「判断基準」を残したからだ。

これが、BX経営の本質だ。
創業者がいなくなっても、魂は残る。

あなたの会社への示唆

Appleの事例から、3つの問いを投げかけたい。

1. 貴社の顧客は「どんな自分」を買っているか?

商品を買っているのか、それとも「〇〇な自分」を買っているのか。

Appleの顧客は「クリエイティブな自分」を買っている。
貴社の顧客は?

「安くて便利なもの」を買っているなら、それは価格競争に巻き込まれる道だ。
「〇〇な自分になれる」という体験を売っているなら、価格競争から抜け出せる。

2. 貴社は何を「捨てる」べきか?

「あったら便利」な機能は、本当に必要か。
安さで勝負することは、ブランドを壊していないか。
選択肢が多すぎて、顧客を迷わせていないか。

Appleは「捨てる」ことで、ブランドを守った。
貴社は何を捨てるべきか。

3. 貴社の社員は「うちならどうするか」で判断できるか?

ブランド憲法が明文化されているか。
現場が迷ったとき、何を基準に判断するか決まっているか。

社長がいなくても、社員が「うちらしい判断」をできる組織。
それが、BX経営の目指す姿だ。

まとめ

Appleが売っているのは、パソコンでも、スマートフォンでもない。

「クリエイティブな自分になれる自分」という体験だ。

すべてのタッチポイントで、この体験を一貫して提供している。

ジョブズがいなくなっても、哲学が組織に残っている。

これが、ブランドエクスペリエンス経営の本質だ。